創立趣旨・思い
創立の経緯
「関西財界の意見を集結し、表明する独自の総合経済団体を設立しようとする動きは戦前からあったが、実現しないうちに終戦を迎えた。東京では1946年8月、日本経済連盟会が解散して経済団体連合会(現在の日本経済団体連合会)が発足した。そして関西でも京阪神を中心とした総合経済団体の設立に向けた動きが具体化し、10月1日、関桂三氏を初代会長として関西経済連合会を設立した。」
創立の趣旨
日本経済再建の基底は戦災の復興であり、産業の急速なる振興であることは論を俟たない。然るに現実の姿を観るに戦時中我国産業は世界経済より完全に孤立し畸形的自給自足体制を余儀なくせられ、加ふるに長年に亘る凡ゆる産業の軍需生産集中の結果は、産業構造として極めて跛行的なる不自然状態を露呈し、更に敗戦に基づいて生じた経済秩序の破壊と虚脱状態は、一種の経済恐慌現象をもたらしたと見るべきであつて、これを如何に整理し常道に引戻すかはなかなか容易なことではない。然し乍ら斯る混乱を脱却して経済機構の新しき姿及び正しき理念に基く再建設は我々産業人に課せられた重大使命であつて、その実現に幾多の困難を予想せらる丶が、我々としては飽迄将来の希望を強く期待して止まないものである。
経済再建の諸施策については政府の措置に俟つべきもの多大であるが、又一方経済民主化への転換を急速且つ適確ならしむる為には、産業人自らの主観的判断に基く旺盛なる企業心を振起し、之が総意の結果を具現化するの要亦切なるものがある。
即ち新しき復興経済に対する指導性の確立は、産業人を基本母体として始めて科学的なる平和経済の育成を促し得らる丶ものと信ずるのである。之が為には業界に於ける凡ゆる産業人の常に緊密なる連繋と、隔意なき意見の交換を求め、十分且つ合理的な考慮と実行力とを盛り上げた同志結合機関の存立を期待せねばならない。
如上の趣旨に則つて、今般広く関西一円の経済団体、法人個人を打つて一丸とし、重要財政経済問題に対し周到適切なる科学的検討を加へ、産業人の自由なる創意と活潑なる活動を促進する綜合研究機関として本会の設立を発起した次第である。
固より関西産業人の互助提携を基盤とした親睦団体であつて、自由なる討議と中正なる判断とに依り、産業人の総意を産業復興の促進に指向して自主的経済体制の確立を助成せんとするもので政治的性格は毫末も之を帯びてゐない。
而して東京都に於て新たに発足したる経済団体等とは、常に緊密なる連絡を図り、積極的に協力せんとする建前であつて東西相呼応して共々に新生日本の経済再建に寄与せんとするものである。
茲に関西産業人の絶大なる協力と支援とを得て有力なる自主的経済団体の発展と其の育成を念願して止まない次第である。
以 上
発会式
「創立にかかわった経済人の熱き思い」
関経連の創立にかかわった経済人たちは、どのような思いからその立ち上げに動き、そこに何を期待したのか。
彼らの根底にあったのは、関西経済界として独自の意見を発信し、戦後復興に邁進する日本経済のためになすべきことをなさねばならない、との強い思いであった。
*各氏の発言内容は「経済人」1951年10月号、1956年10月号からそれぞれ抜粋
創立の契機
関西経済界は統一した意見の発信ができておらず、また発信しても政策などに与える影響が乏しいとの危惧が多々あった。そこで、関西経済界独自の意見を表明するために、統一した組織を作る必要があった。
(日本)経済連盟(会)は形式的には関西をさう軽視はしなかったが、例へ ば財界の意見を最後にまとめるとか言ふ事になると、...関西の意見が或は修正されたり又は握りつぶされることもあったため、関西独自の機関を持ちたいといふ気持が云はず語らずの裡に関西財界にあつたと思ふ。
関経連創立の折の一方針として東京に対する大阪的なセンスを守ると云ふ 考へ方があったように思ふ。この小さな国で東京だの大阪だのと対抗的に考へるのは滑稽とも云へるが、一方人口から云へば世界でも相当上位の大国だから物の見方に相当幅の広い違ひがあっても良い筈だ。
戦争中大阪はずいぶん東京に引摺り廻されましたよ。政府というものを背景にしてね。大阪はその為に非常に苦労をしました。さういふものに対する一種の"これではいかん"といふ気持ちが盛り上がったことが、この会が出来た主要な理由だと思ふな。
創立時の志
関経連の創立にあたっては、決して関西のことだけを考えるのではなく、独自の調査研究に基づく自由な討議と検討をもって日本経済全体に貢献したいとの強い思いを持つ人々が集った。
真の関西経済人が根を張つて研究と体験に基いた信念の持てるオピーニヨン を作り、国家経済の施策に力強い参考資料の提供をなすべきであるといふのが私達の念願であった。
何んでも東京、かんでも東京であつたのでは一旦関東震災の様な事件が起ると全身不随のやうな境遇に陥ることになるからなるべく文化のセンター、智能の源泉を複数になし其間相互に切磋琢磨して行くことが日本国全体のためだと思ふのである。
総べて東京財界に追随する必要もなく、東京財界より独立した意見を関西財 界も発表して然るべきであると考へさせられたものである。否な東京より独立した関西財界の意見を発表することが我国経済に却つて寄与することもあると確信するに至つたことが関西経済連合会を産ましめた一原因でもある。
創立後の動き
発足後は、各地での意見交換を通じて多くの財界人の声を集約し、活動を展開してきた。
各委員会の協力により、時を移さず堂々の論陣を構へ、又業界の指導者である会員諸君が一団となって、近畿は物申す迄もなく遠く九州、四国、山陰、中国、北陸、中部...迄出開帳を行って、生きた問題を掲げて所謂関西の特徴と言ふべき、何等捉はれざる論議を展開している姿は洵に目覚ましくも、また心強い限りである。
東京の経済団体の行き方を見てゐても政府の意を体し、財界特有の意見は割合にでてゐない様に思ふ。此れに比して「関経連」の意見は財界人の真の声として実に効果的に現はれてゐる様に思ふ。例えばシヤウプミッションに対する、税制改革の意見の如きは明瞭に民間の意見を率直に披瀝してをり、その結果は十分にシヤウプ勧告案に取り入れられてゐた様に感じ、強く吾々の記憶に残ってゐる。 (中略) 日本の自立経済達成の為に一さう視野を広くし、内外の状態に対し調査と研究を綿密周到にされ、他の経済団体と相連携し本会創立当初の使命達成に邁進されん事を切望して止まない。